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アーティストをたずねて ほか

文学研究者Aさんの告白(1)

夫の死のショックをレーヴィの言葉で耐えた日々

30代半ばの文学研究者のAさんは、1年前に夫を突然死で亡くした。20代で結婚して以来、子どもはいなかったが仕事に理解のある夫とは助けあって仲良く暮らしていただけに、前ぶれもなくおそった悲劇ははかりしれない衝撃だった。

 

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(c)CBD Tarot de Marseille by Dr.YoavBenDov, http://www.cbdtarot.com

 

葬儀をすませてしばらくして、仕事を再開するためにひとり暮らしをはじめた。実家を離れてひとりになった途端、様々な形で襲ってくる猛烈な孤独感に直面することになった。

 

「まず、無音の状態に耐えられない。それで朝から晩までテレビを見るようになりました。夫の生前は、まったくといっていいほど見ていなかったのに。タイムスケジュールにそって番組が続いていく、隙間のない状態に安心できて。テレビは受動的な媒体だといいますが、その受動性こそが当時の私の精神的安定につながっていたんでしょうね」

 

しかし風呂場にはテレビがない。ひとりの沈黙の世界から逃れるために、Aさんは無意識にプリーモ・レーヴィ著「溺れる者と救われる者」を手にして持ちこんだ。アウシュヴィッツから生還したユダヤ系イタリア人作家で化学者のレーヴィが、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所での虐待・虐殺の体験をつづった古典的名著である。

 

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 エピグラフには、19世紀イギリスの詩人コールリッジの次のような詩句が引用されている。

「それからはある不定の時に

その苦しみが戻ってくる。

そしてこのひどい話を語り終えるまで

心は身内で焼かれ続ける。」

 

不思議なことではあるが、Aさんはこの詩句を読み、ある種の落ちつきを取り戻したように感じたという。その理由は、この詩句から、自分の「苦しみ」を「苦しみ」として甘受しきることへの覚悟をしめされたと感じたからかもしれないと振り返る。

 

「この本を選んだのにはタイトルも影響していたのかも。これまで味わったことのない苦しみに耐えきれず、その苦しみにまさに「溺れる者」であると自分を捉えていたのでしょう。しかし、このまま「溺れる者」であり続ければ、私自身も早晩死に飲みこまれてしまうだろう― そのような恐怖を当時は強く感じていました。同時に、死に飲みこまれないためには、苦痛を打ちけそうとするのではなくむしろ、その苦痛を「語る」=直面し耐えるしかないのだとも感じていました。レーヴィの文章を読むことは、自分の苦しみの輪郭をたしかめることで生きのびようとする、私なりに必死の作業だったのでしょう」

 

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(c)CBD Tarot de Marseille by Dr.YoavBenDov, http://www.cbdtarot.com

 

Aさんは自分の努力によって人生を切り開いてきたという自負があった。しかし努力ではどうにもならない「夫の死」に直面して、これからずっとこの苦しみを背負って生きていかざるを得ないとなったとき、途方もない絶望感と無力感に襲われた。悲しみは精神のみならず、肉体にまで及び、それは「痛み」の感覚として全身を苛んだ。また、周囲と自分とが乖離しているような感覚にも絶えず襲われた。まるで、自分と世界との間に、分厚いガラスが差しはさまれてしまったかのようだった。

 

小説の類はまったく読めなくなり、物語の筋を追うことがどれほどの集中力が必要で疲れる作業であるかということを生まれて初めて知った。どんな言葉を目にしても空疎に感じられてむなしかった。

 

「幼少期から、私にとって読書は常に大切な行為でした。どんな時でも、本さえ読めれば生きていけると思っていました。しかし、夫の死の直後、私は本をまったく読むことができない状態に陥りました。『本すら読めない』状態で、どうやってこの先生きていけばよいのか、文字通り途方に暮れました。

 

そのような中で、唯一読めたのが、レーヴィの本だったのです。今振り返って考えれば、私はあの当時、自分がおかれた状況に釣りあう言葉を求めていたのだと思います。それは、レーヴィの体験に、自分の経験を重ね合わせていたという意味ではありません。私は、自分の人生に突然訪れた、想像を絶する悲哀と苦痛に耐えて生きていくための指針を、レーヴィの語る言葉にひたすら見いだそうとしていたのだと思います」

 

しかしレーヴィは最終的に自殺している。苦しみに耐えつつ生きることがいかに困難な道のりであるかを思うと、やはり心は乱れた。また、絶え間なく襲ってくる苦しみに疲れはてなんとかしてこの苦しみを感じないようにしたいと思う果てに、自分自身もろとも苦しみを滅ぼしてやろうとする衝動に駆られ、ぞっとすることもしばしばだった。苦痛をどうにかして消去したいという気持ち自体が、死に繋がりうるということを、はっきりと感じたという。

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