天才ついに来日!指揮者クルレンツィス&ムジカエテルナ 熱狂の公演に行く
“21世紀の奇跡”の初来日と喧伝される、ギリシャ人指揮者テオドール・クルレンツィスと彼が率いるムジカエテルナの公演に行ってきた。(2月10日 Bunkamuraオーチャードホール)東京3公演は早くに完売。関係者席開放にともなう追加販売を見逃し、当日券売り場に早めにいくも長蛇の列で立見席ふくむ数十枚のチケットは少し手前で売り切れ。ダメかと思われたがキャンセル待ちでなんとか入れた。
この21世紀の奇跡というキャッチフレーズは、批判精神とこの先を暗示するなかなか含蓄のあることばだ。ジャーナリストや音楽学者が伝えるところによれば、ロシアのサンクトペテルブルグに留学したクルレンツィスは、理想の音楽を妥協なく追求するため、あえて僻地で自分の楽団ムジカエテルナを編成。昼夜を問わず練習して世に出した作品が評判をよび、2017年に世界最大のザルツブルク音楽祭に初登場して以来、大人気となっているのだ。
休演日の12日に都内でクルレンツィス氏らの会見があり、チケット購入したブロガーの招待企画に迷わず参加。彼はムジカエテルナを「夢のオーケストラ」と評し、さらに「私たちの演奏というのは賛否両論です。しかし、どちらかというと保守的だと考えています。作曲家が本当に求めていたのは何なのか。そこに自分たちの信念をもって自分たちの音楽を奏でているからです。作曲家の方が私たちの演奏を聴いたら、ハッピーで満足してくれるのではないかなという演奏しかしていません」と自信をみせた。
続けて「この世の中というのは、商業的になっているのかもしれません。そうなると自分の信念で物事をしなくなってくる。だから信念をもって、何かをする人をみると逆に奇妙に映るのかもしれないなと。私たちは信念が重要だと思っています」ときっぱり。
オーケストラ事務局は、ラモーの曲を録音した自分たちの作品が、フランスの「ラモーの音楽はこうあるべき」派から猛反発をくらっていることを明かし、「ナンセンス」と一蹴。自分たちは作曲家に対するリスペクトのもと、曲の時代にあわせて古楽器とモダン楽器を使いわけ、ピッチ、フレージング、当時の演奏法などを深く研究したうえで解釈、演奏していると主張。「スコアに秘められている美しさをどうやって表すか、作曲家とテオドールや、われわれとの出合いによって生まれるのが芸術だと思うのです」
クラシック音楽はその長い歴史上、さまざまな指揮者、演奏家による名演がたくさんあって、ファンであれば自分のライブラリーができあがっている。自国の音楽家ならなおさら思い入れは強いだろう。好みがある以上しかたないのだが、「クラシックの繁栄のために、聴き手が自分と対話できるように、新しい音楽を提供する」という気概と実力をもったクルレンツィス氏を個人的には支持したい。自分の固定観念をいい意味でこわされるクラシック音楽鑑賞というのは、案外愉快なものではないかと思う。
10日の公演で聴いたのは、ヴァイオリニストのパトリツィア・コパチンスカヤを迎えたチャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」と「交響曲第6番 ロ短調『悲愴』」。どちらの有名曲もCD化されており、最弱最強のメリハリや細部までつくりこまれた作品を聴きこんで、実演と比較しようという意気ごみがツイッター等で多くみられた。自分自身はクラシック通ではなく、幼少からピアノをやっていたので多少わかる程度だが、ロシアものはいつからか、ロシアに縁のある演奏家か本国のオーケストラしか聴かなくなっていた。
今回の協奏曲は、これまで聴いたことのないような原始的でピュアな演奏だった。旧ソ連のモルドヴァに生まれて民族音楽に親しんだコパチンスカヤ氏のアイディンティティを感じさせ、弱音ベースで捻るような音や引っ掻き音など多彩な奏法で嘆きやかなしみなどを表現。それがリアルかつナチュラルで惹きこまれてしまう。
キャンセル待ちで手に入れた席は1階14列と前方で、彼女が裸足でステージを動きまわりながら奏でる最弱音の響きもしっかり味わえる。会場全体が息をひそめるなか、やがてオーケストラと共に狂気のような疾走をしていく盛りあがりには本当に恐れいった。
ちなみにクルレンツィス氏はコパチンスカヤ氏について、「彼女は格別な音楽家であるけれども、決して自由なのではない。自分に率直なのだと思う。この世のなかでラディカル、極端だといわれている人たちは、実は誠実で保守的な方たちなのですよ」と話している。
「悲愴」はチェロと一部の楽器をのぞいては立奏で、ロックのような激しいコントラストと迫力ある響きで魅了した。特に快活な行進曲風の第3楽章は、楽章終わりで皆よく拍手を我慢したと思うほど圧巻の大音響で生命力を感じさせる。
190センチ近いクルレンツィス氏は黒のハイネックに黒のぴったりしたパンツ、赤い靴ひもが映える黒のショートブーツという独自のスタイル。バレエダンサーのような優雅さとロッカーのような俊敏さで各奏者に指示をだし、時に顔から首まで真っ赤にしながら音楽をつくりだしていた。第4楽章のラストは儚げに表現されることが多いが、大きなため息をふうっと吐いて終わるような力強さを残した、「悲愴」改め「感動的」にふさわしいものに。指揮台の彼は30秒以上じっとうつむいていたが、顔をあげ大きな拍手に頭を下げた。
1972年生まれのクルレンツィス氏は音楽教師の母をもちギリシャ国立音楽院で学ぶが、ベルリンの壁崩壊に象徴される80年代の革命精神に触発されて、ハンガリー、ルーマニアなどを経て、ロシアのサンクトペテルブルグにたどりついたという人物だ。(そしてイリヤ・ムーシン氏に師事)「当時の若者にとっては20年代のパリを彷彿とさせる地」だったと回顧する。
自らを音楽愛好家と称し、クラシックに限らず、欧米日本のアンダーグラウンド・ロックやオルタナティブ・ミュージックを始め、グアテマラの60年代の音楽、70年代のインダストリアル・ミュージックなど世界中の音楽を聴く。「新しい表現」にとても興味があるからだという。そこには「いま率直な感情の表現というものが、クラシック音楽には欠けているのではないか、見せかけの上辺だけの音楽になってきてはいないか」という問題意識がある。
多くのオーケストラの録音が厳密な時間管理下にある現状や、コンサートのアンコールに報酬を要求してくるオーケストラの存在を明かし、「バカバカしいと思いませんか?」と疑問をなげかける。「クラシック音楽はワールドミュージックをやってきた方が、王道でクラシックだけを勉強してきた方より理解度が深いと思います」との見解も明かした。
クルレンツィス&ムジカエテルナがめざすのは「音楽にこめられた精神エネルギーをあらわすこと」だ。「自分が本当に思っていることや感じていることを大きな声ではなかなかいえない、愛している人たちに自分の本当の姿をなかなかさらけだせない。そういう部分があるのは音楽でもいっしょです。われわれの真の感情を自由に表現するための言語に近いのが音楽なのかもしれません。そうやって生まれた真のエネルギーがわれわれを勇気づけてくれるのです」と話す。
「コンサートホールでやるのは、さまざまな壁を打ち砕くこと。これは聴衆とアーティストとの間にある壁を壊すということもありますけれども、最終的に孤立している自分の魂の壁を打ち砕くことがあると思っています。深層にあるエネルギーがわれわれを違う人間に変えてくれる。これは難しいことですけれども、そういう瞬間というのはあり、そのエネルギーが人間を変えてくれるのだと思っています」
現在46歳のクルレンツィス氏はどこか森の妖精、もしくは仙人のような雰囲気がある。カーテンコールで各セクションの奏者のところにいってニコニコしながら肩を組んで、一緒に頭を下げる姿は喜びに満ちていた。ロシア唯一の国際的なオーケストラで、12か国の国籍で構成されるムジカエテルナのメンバーは(日本人もいる)、彼にとっては同志であり友人であり家族なのだ。そんな彼の「理想の世界」を聞いて納得した。
「修道院にこもってムジカエテルナのメンバーたちと朝6時から朝日がのぼるのを見ながら瞑想をして、リハーサルを始める。そしてわれわれの音楽を聴きたいひとたちだけが来て聴いてくれる。そんなことを夢見ます。そして3か月くらいは修道院から出て街のひとたちにも音楽を聴いてもらうというようなことをしたいと、本当は思っているのです」
そしてアテネに生まれ、ギリシャの古代哲学を深く学んだギリシャ人らしく今後の展望を語るのだ。「われわれの人生でもっとも重要なものは何なのか?スピリチュアルな追究が重要だと思います。大きな世界の流れのなかにいるアーティストとは違うものを、われわれは求めるべきではないかなと思っています。新しい世界で真実を語らなければいけない。そしてその真実を、われわれ自身が見つけていかなければならないのです」
ソリストアンコール
ミヨー
「ヴァイオリン クラリネット ピアノのための組曲 op.1576 第2曲」
リゲティ
「バラードとダンス (2つのヴァイオリン編)よりアンダンテ」
ホルヘ・サンチェス・キョン
「“クリン”1996―コパチンスカヤに捧げる」